江戸の人口は18世紀前半100万人に達したが、ざっとその半数は武士とその家族で、残りの半数が町人だった。この数十万人の武士は、幕府の家臣団と、全国の270~280家の大名と家族、および各大名家の江戸屋敷に勤務する家臣たちだった。
17世紀の江戸
17世紀の江戸文化は、これら武士たちの格式・経済力・嗜好などを反映したものが全面にでた。まず『江戸図屏風』に見られる江戸城や大名屋敷、将軍家の菩提寺としての寛永寺や増上寺など壮麗豪華な建築群がある。城や大名の屋敷の内部は御用絵師たちにより豪華な障壁画で飾られた。広大な武家の屋敷には庭園が造られ、浜離宮庭園、後楽園、六義園などが現存する。能楽や茶道も盛んだった。また初期の吉原遊郭の客は大名を含む武家と豪商が中心だった。
18世紀以後になると、武家の経済力は次第に後退し、富裕な商人が江戸文化の担い手として浮上した。彼らが最も濃密に集住していたのが日本橋地域だった。魚河岸の魚問屋、本町の呉服商、両替町の金融業者をはじめとして、材木、下り酒(関西の酒)、油、薬種、干肴などを扱う商人たちが、武家の接待や仲間の交際、生活や趣味などを通じて、新たな文化を主導していった。
18世紀江戸の女性たち
歌舞伎や人形芝居の劇場が集中した日本橋の吹屋町・堺町には朝早くから見物人が押し寄せ、町人層の共感を呼ぶ物語が創作され、上演された。作者や俳優を後援し、競って大金を投ずる人びとも現れた。自己表現文化として俳諧・狂歌・川柳が流行した。自ら俳諧や狂歌の作家となる者も出現した。また本業外の出版業者に投資したり、自ら出版業を興して浮世絵を世に送り出す人びともいた。女性達の髪を飾る簪、男性の必需品となった紙入れや煙草入れなどの需要は職人たちの技量を向上させ、江戸特有の生活文化のジャンルを確立させた。また富裕な町人層が利用する本格的な料理屋が登場して、江戸の食文化を発達させていった。
江戸のまち
19世紀になると江戸文化の大衆化が進展し、浮世絵や貸本などの需要は中下層の町人たちまで拡大した。蕎麦屋・煮売屋(居酒屋)・屋台の寿司屋、落語などを演ずる寄席の隆盛、『江戸名所図会』にも描かれた両国広小路の芝居や見世物などのエンターティメントもその代表的な例であった。なお、両国の「江戸東京博物館」には日本橋の実物模型や、江戸文化にまつわるさまざまな事物が常設展示されている。